阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「人生は甘くないけれど、」太田海子

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2020.08.07

第65回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「人生は甘くないけれど、」太田海子

 美咲はいつものように仕事帰りに地下鉄に乗った。シートに座ると一日の疲れがどっと押し寄せてきた。今日はひどい一日だった。ミスを重ねて上司に叱られるし、部下から皮肉を言われるし、ミスのおかげで残業になった。疲れすぎて文庫本を開いても活字が目に入ってこない。本を閉じてうとうとしていると、声がした。
「お詰め合わせ願えませんか?」
 顔を上げると、目の前に祖母が立っていた。どうしてここに祖母が!祖母に似た人?びっくりしすぎて声が出なかった。席を詰めると、祖母は座る前に丁寧に頭を下げた。
「申し訳ございません」
 その声、その物腰、やっぱり祖母だ。
「おばあちゃん、どうしてここにいるの?」
 二十五年前、死んだのに―とは言わなかった。言うと、祖母が消えてしまいそうな気がした。祖母は笑顔で、
 「美咲に会いに来た」
 これは夢? 夢でもうれしい。もう一度、祖母に逢いたかった。

 一九九五年一月十七日午前五時四十六分―阪神淡路大震災。神戸市と淡路島の洲本を中心とした阪神地域を震度七の大地震が襲った。神戸市東灘区にある祖母の家は全壊した。祖母と結婚したとき、祖父が買った古い一軒家だった。祖父亡き後、祖母は一人暮らしを続けていた。倒壊した家の下敷きになって祖母は亡くなった。八十歳だった。
 震災の前日、祖母から電話があった。
「テレビを見ていたら、美咲によく似た人がいて、急に声が聞きたくなった。元気?」
「元気だよ。おばあちゃんも元気にしている?」
「おかげさまで元気に暮らしているよ。お正月は美咲が来てくれて、楽しかった。また、遊びにおいで」
「私も楽しかった。おばあちゃんが作ってくれた白味噌のお雑煮おいしかった。春休みにまた行くよ」
 待っているよ――と祖母は言って、電話を切った。祖母とは六十三歳の年の差があるが、相性が良かったのか仲良しだった。高校生になってから、よく一人で祖母の家に遊びに行った。東京から神戸まで長距離バスに乗って行った。七時間以上バスに乗るのは疲れるけれど、祖母の顔が見たかった。
 祖母は大正生まれだった。「貧乏人の子たくさん」の家庭で育った。美咲が子供の頃、祖母は面白おかしく「貧乏話」をした。その中でキャラメルの話が心に残っていた。祖母が子供だった頃、母に買ってもらったキャラメル一箱を七人の兄弟姉妹で分けた。一箱に十二粒しか入っていない。祖母は末っ子だったので、いつも一粒しかもらえなかった。キャラメルを一箱全部一人で食べるのが祖母の夢だった。
 祖母の家にはいつもキャラメルがあった。美咲の手の平にキャラメルを一粒のせると、祖母はいつも同じことを言った。
「人生は甘くないけど、キャラメルは甘い」
 幼かった美咲は「人生は甘い」とはしょって覚えて、祖母に笑われた。祖母はいつもささやかな幸せに感謝して「ありがたい、ありがたい」と言う人だった。
 出棺の前、最期のお別れのとき、美咲は祖母の棺にキャラメルを一箱入れた。

「美咲はいくつになった?」
「もう四十二―なのに、結婚もしてない」
「まだ四十二。若いね。これから何だって出来るよ」
 祖母に言われると、そんな気がして来る。恋愛も結婚も、子供だって産めるかもしれない。先日、十年も続いた不倫の関係にやっと終止符を打ったばかりなのに―。別れを言い出したのは美咲の方だった。
「ボクは別れたくないけれど、美咲が別れたいのなら、辛いけどしかたない」
 言葉とは反対に彼はホッとした顔をしていた。美咲が別れを言い出すのを待っていたのだろう。優しい男だった。優しいから妻と子供を捨てることなど、夢にも思わなかったのだろう。
 祖母は全て知っているのかもしれない。
「美咲、人生は甘くないけれど」
 美咲は思わず、
「キャラメルは甘い」
 祖母は花のように笑って、美咲の手の平に一粒のキャラメルをのせた。そのとき、電車が大きく揺れて、膝の上に乗せていた文庫本が落ちた―その音で目覚めた。隣に祖母はいない。夢?
 いい夢だった。祖母の声や笑顔が心に優しく解けて行く。右手に何かを握りしめていた。開くと手の平に一粒のキャラメルがあった。
(了)