阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ボールの傷」志水久之

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2020.09.09

第66回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ボールの傷」志水久之

「おとうさん、パンツ替えますよ」
 育代は未だにオムツとは言いはばかる。介護はもう三年になるというのに……。
 父の修次は、妻の急死したことが引き金となって精神的に強烈なショックを受けた。
 ただ最近、老いからくる単なる認知症だと医師からは診断されている。
 育代は世話をしながら八十七歳になった父親の肉体にいつも驚かされる。
「おとうさんの筋肉はすごいねえ」
「……すまんなあ……カズコ」
「わたしはイクヨ……和子はおかあさん……」
 なぜか、おむつ替えの時やタオルで身体を拭くときに母親と呼びまちがえる。
 ただ育代は、もう訂正することはやめようと心に決めている。
 老人の介護というのもが、どんなに大変なことなのか、近頃一日一日、それが大きくなってくるのを感じるのだった。
 老々介護という言葉が現実のものとなって自分に迫ってくる。
「私ねえ、来年が還暦なの……」
 育代は、父には通じないと分かっていながら、つい声に出してしまった。
 そう言えば父も米寿なんだ。それを祝う気が起こってこない自分が情けなかった。
 修次は、外見から、とても歩けない人には見えない。しかし、茶碗を持つこともおぼつかない筋力なのだ。まるで乳幼児のような動きしかできない。
 スープを飲ませていたとき、口の端からダラダラとこぼしたみすぼらしい父の顔を見たとき、育代は今日のことを決心したのだ。
 昼過ぎに息子がやってくる。父親を老人施設に移す手伝いをしてもらうためだ。
 父親をそんな施設に入れるなどということは、ひと月前まで頭の片隅にもなかった。
「おとうさん、やすらぎ園が引き受けてくれたの」
「なにを……うけた?……」
「きょう、一朗が来るんだけど、車で三人で行くの」
「いちろう……が?」
「そう、じいちゃんの大好きな孫よ」
「……おれ、朝ご飯食べたかな……」
 会話がかみ合わないのには、今でも慣れない。腹正しいだけでなく情けなくなる。
 家の前で車が駐まる音がした。
「あ、一朗、来たよ」
 部屋に入ってくるなり一朗は、母親に向かって大声を出す。
「ぼくは、園に入れるのは反対だな」
 育代は、それには何も応えない。
「……とにかく手伝って……まだ、園に持っていくもの準備してないの」
「本当に、じいちゃん入れちゃうんだ」
「もう手に負えないの……専門家に任せる……おまえは、いっしょにいないから、そんなことが言えるんだよ……手におえないボケだよ」
「老人のボケというのは死への恐怖を忘れさせるためにあると、ぼくは思う」
 一朗は、結婚を機に母親から離れた。
 今は、職場での同僚だった五歳年上の妻と二人だけで暮らしている。年齢のこともあって妻は子どもを諦めている。
 育代はこのことだけが気にいらない。
 一朗は中学校教師、野球部を指導している。
「じい……うちのチーム、地区優勝したぞ」
 修次の反応は全くない。瞳が濁っている。
 以前「監督になった」と告げたとき、祖父は、どれほど喜んでくれたことか……。
 小学生のとき、キャッチボールの相手をしてくれた。修次は父親がわりだった。
「……そうだ、試合の御守りにしとったじいのボールをもってきたよ……ほら」
 一朗は祖父の手に変形した古びた硬式ボールをそっとのせる。ボールには七十年前の傷があった。修次の眼はその傷に突き刺さるように注がれている。
「じいの初めてのホームランボールだ……すごい打力で縫い目が破れてる……今でも、じいちゃんのこと、みんなに自慢してるんだ」
 育代は、タンスの中を捌いて父親の下着や寝間着をダンボール箱に詰め込んでいる。
「あらまあ、こんなものが……」
 ぴっしりと折りたたまれた野球帽を引っぱり出した。
「それ、じいちゃんのだ」と一朗。
 野球帽を手にした修次は、ぴんと立ち上がると、しっかりとした口調で話し始めた。
「……これは旧制中学から高校に変わった年、昭和二十三年の高校野球にわしが県代表で出場したときの帽子だ……」
 修次は帽子のひさしを右手で掴み、左手を後ろにきっちりと頭に合わせた。それは、まるで試合が始まる寸前の選手にも見えた。
 そのとき、修次の瞳に十七歳の若者の輝きが、一瞬だけ確実に蘇っていた。
(了)