阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「消えてしまった僕」田向秋沙

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2020.09.09

第66回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「消えてしまった僕」田向秋沙

 強い陽射しのなかを僕は少し弾むような心持ちで歩いていた。それは、買ったばかりのベレー棒を被っているからだ。直射日光を遮ってくれる帽子は、夏の季節にはなくてはならないものと僕は考えている。
 帽子屋の店主は言った。残念ながら、僕の頭のサイズに合う帽子はこれ以外にはないのだがと。それが、このベレー帽なのだったが、一目見て僕はこの帽子のことが気に入った。たぶんこれ以外にサイズのぴったりなものがあったとしても迷うことなく、僕はこの帽子を手に取りこれを下さいと言っていたことだろう。
 まるで僕のために残っていたかのようなこの帽子は、仕入れてから五年経っていると店主は説明した。そのためとても新品とは言えないような生地の変質があり、この状態で売るのは気が引けると言って、表示の値段の半額でどうかと言う。僕に異存はなかった。多少古びていたとしても構いはしなかった。それほどまでに、僕はこの帽子のことが気に入っていた。
 しばらく道を歩いていると、奇妙なことを感じた。それは普段なら大したことではないのかもしれないが、さっき手に入れたばかりのベレー帽が影響している可能性もあるから、僕は立ち止まってじっくりと観察した。
 真っ黒い影の代わりに、僕の前の地面には白い影が光って見えるのだ。後ろを振り向いて見上げる空には、相変わらず太陽の光が輝いている。見間違いかもしれない。僕はもう一度、前の地面を見下ろした。やはりそこには白い影が輝いていた。
 僕は正直どうしていいのかわからなくて戸惑った。誰だって、このような事態に遭遇したならそうなるだろう。途方に暮れた僕は、ベレー帽を脱いでみようと試みた。
 このときになって、ようやく気がついたことがあった。ぼくの体はいつの間にかなくなっているのだった。帽子に触れようとしても、僕には手がないのだし、あるべきはずのところに、帽子らしきものも見当たらないのだ。
「ああ、なんてことだ!」
 僕はそう叫んだつもりなのだが、おそらくそれは声にはなっていないのだと思う。すれ違う人が誰も僕に目を留めようとはしなかったからだ。僕は知らぬまに透明な体になっていた。信じられないことだが、そう解釈する以外になかった。
 僕は縋るような気持ちであの帽子屋を目差した。店主に訊けば、どうしてこうなったのかがわかるのではないかと思ったからだ。
 店の前に立ち止まって、僕はあらためて自分の影のことを確かめた。間違いなく白い。ガラス戸を通して店主の姿が見えた。なかへ入るためにドアノブに手を掛けようとして、僕は再び大きな困惑のなかへと突き落された。どうやら透明になった僕には、ドアを開ける術はないようなのだ。そこで、必死になって大声を出して、なかにいる店主に呼びかけようとするのだが、それも無駄に終わった。やはり僕の声は誰にも届かなくなっているのだ。
 透明な体なのだから、ひょっとすると、このままガラス戸を通り抜けることができるかもしれないと考えたが、それもうまくはいかなかった。
 ふと見ると黒猫が僕の足下に蹲っている。猫が好きだったので、屈んで猫の頭を撫でようとしたが、僕の手には何の感触も起きない。
 今までの流れからすると、それは当然のことだった。猫がいきなり飛び退いた。僕の気配を感じているのかもしれない。動物の本能があれば、僕の存在を認識できるということなのか。そうであったとして、この猫に今の僕の状況を打開することはできないはずだ。
 次の瞬間に起こったことは、あまりにも想定外のことだった。猫が僕の白い影の端の方を加えて、走り出した。スズメを咥えて得意そうに振舞うように、俊敏な行動をみせた。白い影が僕の傍から離れていく。僕も一緒について行った方がいいのだろうか。でも結局、僕はそうしなかった、影に従うなんて、これほど馬鹿げたことはないと考えたのだった。
 しばらくすると店主が外に出て来て、歩道に落ちているベレー帽を拾い上げた。
「やはりまたか。この帽子はいくら売っても直ぐに戻ってくる。それも帽子だけで……。売り物にしてはいけないのだろうか。売るにしても、もっと安くしないといけないな。これじゃ、詐欺みたいなものだ」
 その声を僕は空虚な気持ちで聞いていた。周囲を見渡すと、当てもなくウロウロしている、僕と同じ体型の子供たちの姿が見える。
 みんな透明なはずだった。
 陽射しがいくら強くても、体は何も感じない。それは、透明であることの利点なのだろうが、こうして僕は、買ったばかりのベレー帽を手放すことになった。
(了)