阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「つばの長さ」のい

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2020.09.09

第66回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「つばの長さ」のい

「先輩、なんで今日帽子被ってるんですか?ハゲ隠しですか?」
 六月某日。棒アイスをかじりながら、なんの悪気もなさそうに彼女は言った。
「いつもハゲてるみたいな言い方やめて?二十越えた男に頭皮の話すんな、デリケートな問題だから」
 彼女の視線は目の前に広がる海に向けられていて、自分から聞いてきたくせに無視をした。青空の下、防波堤の上に座った俺たち以外に人影はない。
「先輩の頭皮がデリケートだとかどうでもいいですけど、はっきり言って似合ってないですよ」
「別に俺も似合ってると思って被ってねえよ。寝癖すごくて、直すのが面倒だっただけだ」
「被ってる方が変なので脱いだ方がいいかと」
「なに?なんなの?俺のこと嫌いなの?」
 被っている帽子のつばを何となく触る。なんの変哲もない、黒色の野球帽。そんな変かな、と若干の寂寥感を覚えながら横目で後輩の方を見る。食べ終えたアイスの棒を咥えながら、ぼんやり海を眺めている。
 彼女は俺と同じ部活に所属にする、大学二年生。一つ下の後輩である。俺たちの通う大学は海に近く、空きコマになると俺はこうして海を眺めるのが好きだった。そしてたまに、今日のように彼女もついてくることがあった。
「隙あり」と身を乗りだし、帽子を奪い取ろうと伸ばす後輩の手を振り払う。
「なぜそこまで執着するんだ」
「いいから脱いでくださいよ、帽子」
「似合ってなかろうがお前には関係ないだろ」
「だって」とさらに身を乗り出す彼女に、俺は身構える。しかし、今度は手を伸ばして来ず、彼女は顔だけを近づけてくる。
 こつん、と帽子のつばの先端におでこがぶつかった。ふわりと柑橘系の香りが鼻を擽る。吐息がかかるくらいの距離に彼女の顔があった。睫毛長いんだなとか、肌綺麗だなとか、うっすらメイクしてるんだなとか、色々な感想が頭の中を駆け巡ったけれど、何よりも、透き通った彼女の茶色い瞳にじっと見つめられて、俺は何も言えなくなってしまった。
 しばらく沈黙が続いた後、彼女は恥ずかしそうに笑って、
「キス、しづらいじゃないですか」
 内緒話のように小さな声で、そう呟いた。
 どくん、と心臓が大きく脈を打つ。耳まで熱くなっていくのが自分でもわかる。俺は思わず、体を仰け反らせて距離をとった。今自分はとても阿呆な顔をしているんだろうなと思ったけど、それを取り繕う余裕もなかった。
 俺がまごついているのを見て、それまで照れたような微笑みを浮かべていた彼女の、口の端がニヤリと大きく歪む。まるで、俺を小バカにするかのように。
「動揺してやんの」
 そう言い放つと、ニヤニヤと笑いながら彼女は元の姿勢に戻った。俺は「うっざ」と小学生レベルの悪態を吐きながら、ビートを刻み続ける心臓を落ち着けようと深呼吸をする。しばらくお互いなにも言わない時間が続いて、彼女が再び口を開く。
「先輩、もうすぐ夏休みですね」
「ああ、その前に前期末試験だ」
「なんで要らんことを思い出さすかな‥‥」
 当たり前のことを言ったつもりだったが、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をする。さっきおちょくられた仕返しだ、と俺が鼻で笑うと、ムッとした顔をして、そっぽを向いてしまった。俺はスマホで時間を確認する。そろそろ戻らないと、次の講義に遅れてしまいそうだ。
 さて、この臍を曲げた後輩を如何にするか、と思案したところで、「ねえ先輩」と彼女が呼ぶ。
「なんだ後輩」
 振り返った彼女は俺をおちょくった時と同じように、ためらいがちに言葉を紡ぐ。先程と違う点と言えば、どこか瞳が潤んでいるように、頬も上気しているように見えた。
「今年の夏は、私とどこか──」
 言いかけた彼女の言葉は、俺の耳に最後まで届かなかった。不意に吹いた強い海風が、ごうごうと俺の鼓膜を揺らしたからだ。彼女の顔は靡いた黒髪に隠され、俺の被っていた帽子は宙を舞った。「あーあ」と溜息を吐く間にも、くるくると回転しながら、帽子は海岸沿いを飛んでいく。風がおさまり、彼女を見ると、眉間にシワを寄せ不服そうな顔をしていた。
「なあ、さっきなにか言いかけて」
「やっぱりなんでもない」
「いや、今年の夏がどうとか」
「今度言えたら言います」
「行けたら行けますみたいに言うな。言わないやつだろそれ」
「うるさいな──帽子はもらった!」
 言うが早いか、飛ばされた帽子目掛けて走り出す後輩。俺も慌てて、その後を追いかける。
 風が運んできた潮の香りが辺りに満ち満ちている。その中に、仄かな夏の気配を感じた。
(了)