阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「工作」出崎哲弥

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2020.10.09

第67回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「工作」出崎哲弥

 智之はガレージを開けた。白いセダンの運転席に乗り込む。妻の倫子は、まだ出てくる気配がない。いつも支度に時間が掛かる。智之は小さく舌打ちした。面と向かって倫子に文句を言うことはない。結婚十年、夫婦二人での外食は珍しい。そんな時を狙って、わざわざ雰囲気を悪くしても仕方ない。それに智之が何か一つ言えば、倫子から十返ってくるのは明らかだった。
 倫子が玄関で子どもに声を掛けるのが聞こえる。智之はシートベルトを締めようとした。ふと助手席の下に、光を反射するものを見つけた。手を伸ばして拾い上げた。
 ピアスの片方――。智之が贈ったものだった。妻に隠れて逢瀬を重ねている珠美に……。智之は慌てて財布を取り出した。小銭入れにピアスを押し込む。他に何かないか助手席に目を走らせた。
 ドアを開けて倫子がシートに身体を滑り込ませてきた。
「イヤリングがなかなか決まらなくて……。予約時間ギリギリかしら。ごめんなさいね」
「あ、ああ。じゅうぶん間にあうよ」
 智之は、つくり笑顔で応えて車を出した。わきの下を汗が伝うのが分かった――。

「ずっと探してて……。どこにあったの?」
 ピアスを受けとった珠美が訊いた。
「そこ、だよ」
 智之はシートの下を指差した。
「え? やだ、大変。大丈夫だった?」
 口に手をあてて珠美は言った。目を見開いている。
「間一髪、僕が先に見つけたから」
「よかった……」
 珠美は、ため息を漏らした。
「一瞬、わざと忘れていったのかと思っちゃったよ」
 軽い調子を装って、智之は言った。
「そんなことするわけがないじゃない」
 珠美は呆れたように笑った。
「だよな」
「あせったんでしょ」
「まあね」
「よっぽど奥さんに知られたくないのね」
 珠美の目が冷たくなっている。
「おいおい、そこは分かってるだろ。君の存在がバレたら、ややこしいことになるって」
「また慰謝料の話? ずっとそればっかり言ってるけど、お金で済むならそれでいいじゃない。離婚の話は本当に進んでるの?」
「もちろん。じっくり話し合っている。だから待っててくれよ」
 珠美の返事はなかった。
 その日、家のガレージに車を入れてから、智之は助手席を点検した。シートの背もたれに、髪の毛が一本くっついていた。栗色掛かって長い。明らかに珠美のものだった。智彦は眉をひそめて摘んだ。車を降りると、隣家の植え込みに髪の毛を振り落として、玄関へ向かった。
 次に逢った日、珠美は強烈な甘い匂いを漂わせて車に乗ってきた。
「……香水、かい?」
「あら、分かる? ほんのちょっぴりつけただけなのに」
 ちょっぴりどころか、一瓶振りかけたほど匂う。
「香水なんて今まで使ってなかったよな?」
 難ずるように智之は訊いた。
「別にいいでしょ。気分を変えてみたくて。さあ行きましょ」
 珠美は平然としていた。
 帰宅する前に、智之はドラッグストアに寄った。強力な消臭スプレーを買うと、車内と自分の身体に思いきり噴射した。

 珠美を乗せた後、車内点検に掛かる時間は長くなる一方だった。まず、何か落ちていないか確かめる。次に、携帯掃除機を手に、這いずり回る。最後に消毒用アルコールを含ませた布で拭く。あれから消臭機能を強化したエアコンは、点検の間、付けっぱなしだった。
 潔癖なまでに車内を清掃するようになったせいで、倫子にはかえって怪しまれた。それはそうだろう。家での智之は、まるで無頓着なのだから。
 智之は珠美と別れることに決めた。倫子にはバレていない。しかし、手を変え品を変え自分の存在を示そうとする珠美が恐ろしくなったのである。ただ、珠美がすんなり別れを受け入れるとは思えなかった。智之は数日思い悩んだ。
 ついに、別れ話をしに智之は向かった。案の定、珠美は応じなかった。逆上して、すべて世間にぶちまけると暴れた――……。

 その夜も智之は車内を点検した。いつもより念入りに。最後にトランクを開けて、徹底的に痕跡を消した。
(了)