阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「幽霊」里田遊利

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2020.10.09

第67回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「幽霊」里田遊利

 目の前に幽霊が浮かんでいた。
 いや、幽霊とは限らない。足がなくて体が透けているから、とりあえず幽霊と表現した。でも、そのような人もいるかもしれないから、現時点では幽霊(仮)といった表現が適切か。
「で、どうしたの?」
「恨めしや」
「いや、君に恨まれる心当たりはないけど」
「恨めしや」
 何を聞いても同じ言葉しか返してこない。僕の事を恨んでいるのだろうか。全く心当たりはないが。顔に見覚えもないし。
 見覚えがないと言えば、この部屋も見覚えがない。どうしてこの部屋にいるのかも、全く覚えていない。
 家具やカーテンは黒と白を基調としていて、落ち着いた雰囲気だ。僕は黒いソファーに腰かけている。目の前のテーブルには、グラスが二つ。何か飲んでいたのだろうか。もしかしてこの女と?
 僕は立ち上がり、一つだけあった小さな窓から外を見る。
「……え?」
 窓の外の風景は、全く見覚えがなかった。どこかの住宅街なのだろうか。似たような屋根がいくつも連なっている。
 そんなことよりも、
「あれ、幽霊、だよな?」
 屋根の上を、半透明の幽霊が何人も浮かんでいた。鳥のようにゆっくりと飛んでいるのもいれば、一つの屋根をじっと見つめているものもいる。
 これまで幽霊なんて一回も見たことがなかったのに、なんで急に見えるようになったのだろうか。
 もしかして、この女が関係しているのか?
 そう思ったら、なんだかこの女の傍にいるのが気持ち悪くなってきた。僕は窓に背を向け、開いていたドアを通って廊下に出る。
 廊下の突き当りに玄関があった。靴が二足並んでいる。僕とあの女の靴だろうか。あの女は足がないから、違うかもしれない。
 靴を履こうとした瞬間、背筋に悪寒が走った。このまま外に出たらいけないような気がする。この部屋に何かを忘れているような。何かをしないといけないような。
 僕は踵を返す。部屋に戻る途中にキッチンがあった。水でも飲もうと、足を踏み入れる。
「……なんだ、これ」
 食器棚の横に、大きめのジャムくらいの大きさのビンが置いてあった。中には半分くらい、何かの液体が入っている。
「忘れ薬?」
 ビンの横には、取扱説明書が広げてあった。
「一口飲むと、直近1週間の記憶がなくなる。2口飲むと、1か月の記憶を失う。3口飲むと、心臓の動かし方さえ忘れる、か」
 ビンの残量を見ると、明らかに3口分以上は減っていた。
 もしかして、僕が全てを忘れているのは、この薬を飲んだから、だろうか。
 じゃあ、あの女はもしかして。
 僕の頭に黒い予感が浮かび上がってくる。
 もしかして、僕があの女を殺したのだろうか。そしてそれを忘れるために薬を飲んだ?
 僕は慌てて部屋に戻った。あの部屋に戻れば、何か思い出すかもしれない。部屋の中では、先ほどと同じように女が浮かんでいた。
 ふとソファーの後ろを覗き込むと、あの女が横になっていた。慌てて振り向く。あの女は、やっぱり恨めしそうにこちらを見ている。
「え? 二人?」
 もう一度ソファーの後ろを覗き込むと、やっぱり女は横たわっている。双子だろうか。
「いや、違うな」
 ソファーの後ろの女には、足がある。浮かんでいる方の女には、足がない。つまり、ソファーの後ろの女が本体で、浮かんでいる方はやっぱり幽霊だ。僕はソファーの後ろの女に薬を飲ませ、殺したんだ。
 なんてことをしてしまったんだ。警察に自首するしかないだろうか。でも動機も何も覚えていないし、なんて自首すればいいんだ。
 僕はソファーに腰を下ろすと、頭を抱える。こうしてみても、何も思い出せない。
「なあ」女を見上げる。「僕はなんで君を殺したんだ?」
 僕は立ち上がり、女の目を覗き込む。目は口ほどにものを言う、という諺もあるし、何かヒントはないだろうか。
「あれ?」
 女の目に、ソファーに座っている僕が写っている。僕は立っているのに? 後ろを振り向くと、僕の身体はやっぱりソファーに横たわっていた。彼女はその体を見ている。
 そうか。僕が忘れていたのは。
 この女に薬を飲まされたことだ。
「やっと思い出してくれたね」女はにっこりと温かみのない笑みを浮かべた。「これからはずっと二人っきりだよ」
(了)