阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ふたりの縁側」いとうりん

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2020.11.09

第68回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ふたりの縁側」いとうりん

「先生、先生」
 ぱたぱたと廊下を走ってくるのは、妻のカナコだ。カナコは私を先生と呼ぶ。たまには名前で呼んで欲しいが、結婚以来一向に呼び方を変えない。
「先生、こんなところにいたの? ごはんよ」
 金木犀が微かに香る午後のリビングに、読みかけの本と老眼鏡。若いつもりでいても、カナコはそれなりに年を重ねている。
 食事が終わると、カナコはパソコンを開く。
「先生、ミステリーって難しいわ。軽いミステリーでいいって言うから引き受けたけど、なんか煮詰まっちゃった」
 カナコは小説家だ。かく言う私も小説家だった。今はすっかり書かなくなってしまったが、文章だったら妻よりも巧い。
「カナコ先生、お邪魔しますよー」
 あの声は担当編集者の谷中だ。相変わらず勝手に上がり込み、自分の家のように冷蔵庫を開けたりする。もともと私の担当であった彼女は、数年前、カナコに小説を書くことを勧めた。それが異例の大ヒットとなったのだから、谷中は図々しいだけではなく、優秀な編集者でもあったのだ。
「カナコ先生、どうですか。しばらく休んでいたけど、やっぱり書かないと調子でないでしょ。物書きなんてそんなものですよ。コーヒー淹れますね」
「ありがとう、谷中ちゃん。確かにね、書いているときは夢中になれるんだけどね、つまずいたときに先生のアドバイスがもらえないのは、ちょっとキツイな。先生のダメ出しはすごく的確だったから」
「ああ、わかる、わかる。でもまあ、所詮はひとりで書くものですからね。小説は」
「そうよね」
「ところでカナコ先生、猫を飼い始めたんですか。何だかふてぶてしい顔の猫ですね」
 谷中が私を抱き上げた。「私だ。気安くさわるな」と言いたいけれど、今の私には「にゃー」という発音しか出来ない。
 思い残すことなく、この世とオサラバしたはずだったが、気がついたら猫になってこの家に戻っていた。気丈で明るいカナコが縁側で一人泣いているのを見て、その手をぺろりと舐めてやった。
「先生」とカナコは私を呼んだ。
「先生によく似た猫ちゃんね。もしかして生まれ変わったの? あはは、まさかね。四十九日が済んだばかりなのに早すぎるわよ」
 カナコは、声を出して笑いながら涙を拭いた。以来私はここにいる。
 谷中がコーヒーを三つ淹れた。一つを仏壇に供え「先生、夢の中でもいいから、カナコ先生にダメ出ししてあげて下さいね」と手を合わせた。私にできるアドバイスなどもうない。カナコは立派な小説家だ。
 谷中は、くだらない世間話を散々して、ついでのように、小さな仕事を幾つか置いて帰った。最後に私をしみじみ見て「見れば見るほどブサイクな猫だわ」と、余計なひと言を残して行った。カナコは立ち上がって大きく伸びをしてから、私をそっと抱き上げた。
「先生、見て。きれいな夕焼けよ」
 ひとつ仕事が終わると、ふたりで縁側に座って飽きるほど庭を眺めた。春には桜、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬には椿。この庭を眺めながら死にたいと、病院のベッドで何度思ったことか。好きなことをたくさんして、思い残すことはないと思っていたけれど、大ありだった。この先何年も、この庭をひとりで眺めるカナコのことを思ったら、胸が潰れそうなほど切なくなった。
「ねえ先生。私ね、先生のことを名前で呼んだことがないの。ああ、人間の先生のことよ。だってね、出逢ったときから先生だったのよ。私、先生のファンだったの。結婚してこの家で一緒に暮らしても、私にとって先生は、尊敬する大好きな先生なのよ」
 何だか照れ臭い。出逢った頃と、カナコは全然変わっていない。
 日暮れの風に、金木犀の香りが優しく舞い込む。呼び方なんてどうでもいいさと、私は丸くなって欠伸をした。
「ちょっと肌寒くなってきたね。さあ先生、ごはんにしようか」
 カナコが窓を閉めて、戸棚のキャットフードを取りに行く。私はシッポを振りながら、そのあとを追いかける。
「ああ、たまにはサビの効いた特上寿司でも食べてみたいものだ」
 秘かにそんなことを思いながら。
(了)