阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「薔薇の缶」河音直歩

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2021.01.08

第70回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「薔薇の缶」河音直歩

 鍋のシチューのにおいが居間に流れてきていた。夫と娘の下着や靴下は正しいたたみ方で箪笥に収められ、くまなく掃かれた床には水踏みの跡が消えかけていた。
 エプロンを首から掛けたまま、嘉子は小ぶりなソファに腰を下ろし、コンパクト型のアルミの缶を膝に置いた。園へ娘を迎えに行くまでにあと小一時間はあった。
 缶の正面には、紺地の背景に妖しく可憐な紫の薔薇が一輪描かれていて、黄金色の英字がその家来のように整列していた。その中に焼菓子は一欠片も残っていないのに甘い匂いをさせていた。
 福原さん方のいただきものだった。ロンドンを発つ日に立ち寄った、テラスの美しい老舗のカフェで購入したということだった。
 黄金の文字は缶の蓋の縁にも小さく、薔薇の花びらと葉の一枚一枚とともにあしらわれ、焼菓子をくるんでいた紙包みを取ると、底にもそれは並んでいた。
 じっくり眺めなければわからない金・紫・緑のこのけなげな列にみる異国の瀟洒な美意識に、嘉子の胸は憧れでいっぱいになった。空き缶にはどんな大切なものを入れようかと、明るいうちは皿を洗ったり掃除機をかけながら、夫と娘が床につけば髪を梳かしながら、あれこれ想像しては何度も缶を触りに戸棚を開け、その合間合間に日をおいて一枚ずつ、知らない果実の歯ごたえのある焼菓子を大事に食べてきたのであった。
 嘉子の心配事は側面に貼られた白いラベルだった。ロンドンのカフェの人間によるものだと思われるそれには判別不可能な文字が走り書きされ、薔薇の顔を覆うように缶にぺたりと付着していた。試しに爪でその先を剥がしてみると、糊がきたなく缶の表面に残るばかりでなく、美しい紫色がラベルの裏面にへばりついて取れてしまうのだった。薬品を使うのもはばかられた。跡形もなく取り去るのには繊細で慎重な手つきが必要だった。
 爪を短く切った人差し指をラベルにそえたとき、電話が鳴った。福原さんだった。
「ごめんなさいね。このあと迎えに行けば園でどうせ岸本さんと会うのだけど、周りには、ほら、ほかのお母さん方もいるでしょうから。その前にね、お話がしたくって。でもいま、夕飯をお料理中だったかしら?」
「いいえ、大丈夫よ。ちょうど一段落ついたところだったから。福原さんからもらった、あの可愛らしいお菓子の缶と一緒にソファで休んでいたところなの」
「ああよかった。実はね、少し困ったことになったのよ。運動会と卒業アルバムの委員のことなのだけど。両方とも、一日でも休んじゃいけない大事な委員会だっていうのに、私、どうしても全部の日程に参加できなさそうなのよ」
「まあ。園長先生も他のお母さんたちもご熱心にやられているって聞いてるわ」
「そうなの。だから本当に困ってるのよ」
 嘉子は缶の上に休めていた右の人差し指を動かして腹で四角いラベルの角をめくり上げると、そっとつまみ上げた。
「出られないのはどれくらいなの?」
 ゆっくりとラベルを剥こうとする指に目を注ぎながら嘉子は訊ねた。
「それがね、十回中、おそらく半分は無理みたいなのよ。どんなに頑張っても五回が精いっぱいだと思うのよ」
「それは困ったわね」
「そうなのよ。いろいろあってまた度々海外に行かないといけないからなのだけど――それじゃあ、もうまるっきり参加できるわけもないじゃない?」
「そうね」
「自分が忙しいからって、赴任している間は娘と一緒に顔を見せにこいって夫が言って聞かないせいで、あの人のわがままで、いつもこんなふうになっちゃうのよ」
「そうね」
「私、他に頼れる人がいないのよ。ごめんね、岸本さん、今回も、代わりにやっていただけないかしら」
 勢いよく缶からラベルシールが引き剥がされた。紫も一緒に剥がれていったために、缶に残ったかすれた薔薇の顔に銀のアルミの色が点々とあらわれた。
 嘉子は指を止めて缶を見下ろした。やはり缶には自分の日常とはかけ離れた、異国の華やかさがあった。福原さんのいる日常はこのラベルを貼る人間がいる日常と一致していて、嘉子の羨望は止まなかった。
 次はもっと美しくて可愛いお土産を、と言いかけて、彼女はしばらく口をつぐんだ。
(了)