阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「一生忘れない」林一

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2021.01.08

第70回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「一生忘れない」林一

 私の初恋は、小学一年生の時だった。相手は担任の武田先生。人見知りでクラスの友達ともなかなか馴染めなかった私の相談に、いつも親身になって乗ってくれた優しい先生。私が小学二年生に上がるタイミングで、武田先生は他の小学校に転勤してしまい、私の初恋は儚くも散ってしまった。
 私が小学校の教師を志すようになったのも、武田先生の影響だ。現在私は、都内の大学で教師になるための勉強に日々励んでいる。
 なぜ急に初恋の話を思い出していたかというと、今私が座っている電車の座席の目の前に、武田先生が立っているからだ。
 あれから十三年が経ってるから、丁度四十歳か。白髪が混じって少し老けたけど、相変わらずカッコイイ。先生が私に気付いてくれるまで待っていようかとも思ったけど、私は待ちきれずに自分から声をかけた。
「先生、お久しぶりです」
「えっ? あのーすみませんがどちら様ですか?」
 ショックだった。あんなに大好きだった武田先生が、私のことを忘れていたなんて。でも私はすぐに冷静になった。あの頃の私はまだ子供で、今は二十歳の大人。分からなくても無理はない。
「小学一年生の時にお世話になった田所リカです。覚えていませんか?」
「田所リカ……あっ、あー思い出した。久しぶり。覚えてるよー。元気だったか?」
 私は再びショックを受けた。先生の今の覚えてるよーの言い方は、明らかに本当はまだ思い出せてないけど取り合えず話を合わせておこうとする人が使うそれだったからだ。
「先生……さようなら」
 私は席を立つと、丁度今着いた駅のホームに降りた。最寄り駅まではまだ三駅も残っていたけど、私は自宅まで歩いて帰ることにした。溢れ出る涙が乾くまでに、それくらいはかかりそうだったから……。

 あれから二年後。晴れて教師になった私には、確固たる信念があった。
『自分の教え子達のことを一生忘れない』
 私のような悲しい思いをする犠牲者を、もう二度と出したくない。私はその一心で仕事に励み続けた。

 私が教師になってから十八年が経った。
 私は今年で四十歳になる。あの時電車で再会した武田先生と同い年だ。結婚はしていない。真剣に教え子達と向き合っている私には、恋愛などしている暇がなかったからだ。教師という聖職者でありながら、恋愛にうつつを抜かしたり結婚なんかをしている同僚達を見ると、正直虫唾が走る。なんて意識が低いのかしら。
 そういえば、武田先生の薬指にも指輪がしてあったっけ。そんなんだから大切な教え子である私のことも忘れてしまうのよ。ああもう、あんなひどい先生が私の初恋なんてホント黒歴史だわ。もうあんな奴のことは忘れて、自分の仕事に集中しないと。
 朝の七時に出勤。一日の授業が終わり、教え子達を送り出すのが午後の三時過ぎ。その後も明日の授業の準備や連絡事項のプリント作成、教え子達が提出したノートやテストのチェック。これらの作業を全て終えて帰宅する頃には、午後の八時を回っていた。
 コンビニで買ってきた弁当で軽く食事を済ませると、ここから私にとって一番大事な仕事が始まる。
 私がこれまでに受け持ってきた教え子達は、全部で五五二人。彼ら彼女らにいつ再会してもすぐに思い出せるようにするため、私は五五二人分の教え子達の顔写真と名前をラベリングしたカードを毎晩見直している。そして今日は、年に一度の顔写真の更新日だ。
 スマホに保存してある教え子達の当時の顔写真を、最新のアプリ機能を使って現在の年齢まで老けさせる。出来上がった顔写真をプリントアウトすると、古い顔写真が貼られたカードの上に新たにラベリングしていく。
 こうした日頃の努力を怠らないことで、私は自分の教え子達のことを全員忘れずにいられている。いつどこでかつての教え子達に再会したとしても、必ず気付くことができる。
 事実、私は今までに何度もかつての教え子達をいたる所で見かけている。でも、向こうが私に気付いてくれることはあまりない。だからといって、自分から声をかけることはできない。
「えっ? あのーすみませんがどちら様ですか?」
 こんな風に返されてしまったら、きっとショックで立ち直れないからだ。 
(了)