阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「夏、午前十時。白線の前で。」高村芳

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2021.02.09

第71回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「夏、午前十時。白線の前で。」高村芳

 母さんの気配を背中に感じながら、靴紐を慣れた手つきで結ぶ。左足、その後右足。いつもの順番だ。
「気をつけてね。母さんたちは、会場に直接行くから」
「わかってるって。大丈夫」
 右の膝をポンと叩いてから立ち上がり、玄関の扉を開ける。早朝だというのに、真正面から日差しが肌に突き刺さった。屈伸して、膝の跳ね返りを確かめた。ふう、と肺の中の空気を押し出してから、背筋をぐっと伸ばす。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい。頑張ってね」
 見送る母さんに頷いてみせてから、道路に出る。木漏れ日が揺れ、水面のような模様を路面に描いている。今日は快晴だと、テレビの中でアナウンサーが笑っていた。アイツとの待ち合わせにふさわしい天気だった。
 今年のインターハイは偶然にも自宅から三十分ほどの県立競技場で行われる。コンディションを整える時間が人よりかかる俺にとって、かなりありがたかった。
 テントでは同じ陸上部の仲間が、ひっきりなしに出たり入ったりしている。一部の競技はもう始まっており、出番が遅い部員は応援に行っているようだ。俺は入念に体操とストレッチをしてから、近くの調整用のトラックで軽く汗を流した。日差しは強いものの湿気は思ったより低く、効率よく体が温めることができた。
 アップを切り上げ、テントに戻り、エネルギー補給としてゼリー飲料を流し込む。水分補給していると、監督が俺の方に大股で近づいてくる。慌てて立ち上がろうとすると、右手で制された。
「どうだ、調子は」
「問題ありません」
 監督は白髪交じりの眉を寄せて、疑いの目で俺を睨む。まったく信用されていないことに、思わず吹き出してしまった。
「嘘じゃないですよ。この日のためにやってきたの、監督も知ってるじゃないですか」
 俺につられたのか、呆れたように監督も口端を上げる。
「来てるのか? 例の選手は」
「来てますよ。さっき、その辺を赤ジャージでランニングしてましたから」
 俺の少し蒸気した肩に監督が手を置く。監督の手も、熱くなっていた。
「しっかり体、温めとけよ」
 俺は静かに返事をして、他の選手の様子を見に行く監督の背中を目で追った。
 実際、体の調子は悪くない。昨日病院で診てもらった膝も、今は大人しい。
 陸上を始めたのは、幼なじみに誘われたからだった。速く走れる、それがステータスだった時代。俺は簡単にその誘いにのり、近所の陸上クラブに入った。幼なじみのほうが少しだけタイムが早く、それがさらに俺を陸上にのめりこませる要因になった。幼なじみが転校してからも、遠く離れた土地で、お互いの速さを競い合った。「アイツよりも速く走りたい」というだけで、一〇〇メートルを何万本も走ってきたのだ。〇.一秒に笑い、〇.一秒に泣く。そうして何年も過ごしてきた。
「男子一〇〇メートル、予選始まります! 出場選手はお集まりください!」
 大会運営スタッフが、拡声器で周囲に呼びかける。俺は軽くジャンプして足を起こしてから、予選待合所に向かった。赤い生地に黄色のラインが入ったユニフォームが視界に入る。
「よお」
「待たせたな」
「三年待ったぜ、バカヤロー」
 幼なじみだったソイツに憎まれ口を叩かれながら、隣に並んだ。坊主頭といたずらっ子のような笑顔は、小学生の頃と何ら変わらないが、一年前よりも絞られた艶やかな筋肉をしている。今年の優勝候補と言われるコイツと予選から当たるとは。神様なんていねーな、と思う。
 自分たちの番になり、スターティングブロックの位置を調整してから、スタートを繰り返して感覚を研ぎ澄ませていく。
 一コースから次々と選手の名前がアナウンスされていく。肌が燃えるようだ。先ほどまで鳴り響いていた鼓動は静まり、自分でも驚くほどに落ち着いている。隣のアイツも同じなのか、なぜか目が合って、ハハ、と笑ってしまった。監督に見られていたら、絶対怒られただろう。
 中学最後の大会直前、俺が怪我で出場できなかったとき、アイツは怒るでもなく慰めるでもなく、「三年後だ」と一言だけのメールを送りつけてきた。「勝手なこと言いやがって」という怒りはエネルギーに変化し、この三年間、アイツと大会で戦うことだけを考えてリハビリとトレーニングに励んだ。陸上を始めてから、アイツの背中を追ってばかりだな、と、どこか開き直れた。たとえ勝てなくても、アイツとの約束の場所に行く。出場規定ギリギリのタイムを出して、なんとか手にした、この瞬間。
 白いスタートラインに指を置き、スターティングブロックに足をかける。タータンから足裏に反発する力を感じる。誰かに背中を押してもらうって、こんな感じなのかもしれない。隣から、自分のものとは違う熱が伝わってくるようだった。俺は心の中で、「お前は勝てよ」と呟いた。まだ声変わりしていないアイツの、「うん」という自信満々の声が聞こえたように思えた。
 ぱあん、と乾いた号砲が駆け抜けた。
(了)