第72回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「アイマスクを外したら」布原夏芽

  • 結果発表
  • 文芸
  • 会員限定

2021.03.09

第72回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「アイマスクを外したら」布原夏芽

 嘘だろう。そんな言葉を口に出さずにはいられなかった。ここは高度一万メートルの太平洋上空、飛行機の中。夏を米国で過ごし、帰国する乗客で満席だったはずなのに……。
 航空技術が発達した現代でも、欧米からのフライトは長い。若い頃は座席のモニターで長編映画を立て続けに鑑賞したものだが、年を取ってからは画面を注視し続けるのが億劫になった。職業がら頻繁に海外出張する日々を重ねて新鮮味も薄れ、今では機内で暇を潰すには専ら睡眠だ。機内食を済ませた僕は、搭乗時に配られたアイマスクを目に、立体マスクを口もとに装着して座席に身を任せた。
 あれから何時間経ったのだろうか。アイマスクを外した僕の目に映ったのは、がらんどうの機内だった。僕が座る右の窓際席からは、左側の客席が一直線に見通せるが、着席している人間はおらず、青色のシートが連なっているばかりだ。前方の座席には先ほどまで並んでいた頭の群れがすべて平らな座席の線を保っていた。
 動揺のあまり、乱気流でシートベルト着用サインが点灯しているにも関わらず、僕は座席から立ち上がった。通路に出ても乗客はおろか、キャビンアテンダントの一人もいない。トイレを見て回ったがどの個室も空室で、いよいよ理解が及ばなくなってきた。
まさか、この分だと操縦席にもパイロットがいないのではないか。慌てた僕は、一目散に機内最前部へと走った。長い通路の途中で、誰かと出くわすことはもちろんなかった。眠る前にトイレに立ったときには、狭い通路をすれ違うのに苦労したのが、嘘のようだ。
変な汗を身にまとわせながらも、僕はほどなくして操縦室の手前まで行き着いた。この扉を一介の乗客である僕が開けることは本来なら許されない。しかし、これは紛れもない緊急事態だ。この期に及んでも、危機を伝えるスタッフの一人も見当たらないのだから。
 意を決して扉に手をかけた。しかし、押しても引いても操縦室への扉は開かなかった。なんということだ、パイロットが消えたかどうかを確認することすらできないというのか。「おーい! 誰か、誰かいないのか!」
 扉をこぶしで叩きながら喚いたが、扉の向こうは静寂のままだ。せめて操縦室に入ることができれば、管制塔か別機に通信できるかもしれないのに。その場で僕はへたり込んだ。
 一方で、冷静に状況を吟味する自分もいた。今のところ、機体は多少揺れつつも安定している。自動操縦の機能は保たれているらしい。しかし、高度を保って運航しているままでは、いつか燃料に限りが来る。それはいつなのか。
 ハッとした僕は、近くの席のモニターから着陸予定時刻までの残り時間を確かめた――あと三時間。平時なら「まだ三時間もあるのか」と不平に感じるところだが、この状況ではもう幾ばくも無いのと同義だ。鮨詰めで狭苦しかった機内が今やだだっ広かった。
 しかし、まだ三時間ある。僕は必死にポジティブな方向へと意識を追いやった。それだけあれば、長編のアクション映画だって見終わる。ヒーローはたった三時間で、絶体絶命の危機から人類を救うのだ。老いた僕であっても、まだ何かできるかもしれない。
 若い肉体に戻ったような血流が、体中に沸いてきた。それからの僕の活躍は凄まじかった。自宅でいつも僕のことを小馬鹿にしている大学生の娘も、父親のこんな姿を見れば舌を巻くに違いなかった。
 手のひらに渾身の力を込め、操縦室への扉をぶち開けた。重厚な鉄壁であろうと、正義みなぎるヒーローの前には意味をなさない。予想通り機長も副操縦士も姿を消したコックピットで、僕はひとり操縦桿を握った。通信も途絶えていたが、昔見たパニック映画のおかげでおおよその操縦方法は見当がついた。
 僕が着陸に失敗すればこの機体は墜落して、地上にいる多くの人命を奪う大惨事になるだろう。もっとも地上の人間が、この機内と同じく消え失せていなければの話だが。
「うぉおおおおおぉっっ」
 ついに陸地が見えてきて、気合の雄叫びを僕は上げた。みるみる迫ってくる滑走路。衝撃に備え、僕は奥歯を強く噛み締めた。
「恐れ入ります、お客様。まもなく着陸態勢に入りますので座席をお戻しくださいますか」
 キャビンアテンダントAIに肩を叩かれて、リアルなVRを映し出していた最先端のアイマスクが、急速に単なる黒い布地へと戻っていった。「邪魔をするなぁっ!」というバーチャル醒め際の僕の叫びは、騒音を外に漏らさぬ特殊性能マスクへと吸収されていく。
 最近のマスク類は、別世界へと意識を飛ばすほどの高度テクノロジーの結晶であることを僕は痛感していた。それに、超高速化した航空機も。米国まで十何時間もかかり、モニターで2D映画を見るばかりだった僕の若い時代では考えられないことだ。ニューヨークから日本まで、あっという間の三時間だった。
(了)