阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「天井の清水くん」荻利行

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2021.05.07

第74回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「天井の清水くん」荻利行

 ベッドの上で裸の恵介に乗られているとき、仰向けの有希は天井に染みが広がるのを見たような気がした。翌日、まだ暗い朝の五時、天井を見ると、やはり染みはできていた。
「なんで天井に染みが?ここマンションよ」
 隣で寝ていた恵介が目を覚ました。
「どうした?」
「あそこ。天井に茶色い染みがある」
 恵介は眼鏡をかけ、目を細めて天井をみた。
「染みなんかないだろ」
「あるでしょ、あそこ。結構おおきい染みが」
「今、何時だ? もう五時か。時間だな」
 恵介は頭をかきながらハンガーにかけておいたスーツを着ると、改めて天井を見あげた。
「大丈夫か? 有希。今日、納品だからな。つまらんミスで俺に尻拭いさせるなよ」
 そう言って恵介は朝日も昇らぬ暗いうちに有希の部屋を出ていった。始発電車に乗って妻が待つ我が家に帰るのだ。徹夜仕事と嘘をつき、何食わぬ顔で妻が作った朝食をとり、また出社する。タフが売りのバカ上司。有希は心の中で毒づき、もう一度寝ようと思った。
「有希。起きろよ、有希」
「え? 恵介? まだ、いたの?」
「俺だよ。清水だよ。久しぶりだな、有希」
 その声は天井からだった。そっと見あげると天井の染みが目、鼻、口のある顔になり、にこりと笑った。有希は恐怖に襲われた。
「どういうこと? だれよ、あんた!」
「中学生のとき交換日記していた清水だよ」
 有希は思い出した。中学生のとき国語の授業で、なぜか交換日記の課題があった。その相手が清水だった。たしか学年でもトップの秀才、だが色白でひ弱そうな男の子だった。もう記憶の底に埋もれてすっかり忘れていた。
「あのときの日記、また読みたいな」
「あるわけないでしょ。十年以上前だよ」
「いや、あるよ」
「どこに?」
「有希の下着が入っている衣装ケースの中」
 有希は天井の染みと話している自分をおかしいと思ったが、天井の染みに言われて衣装ケースの中を探す自分は、さらにおかしいと思った。しかし、お気に入りの下着の下に、その交換日記はあったのである。
「ほらね。あっただろ?」
 有希は信じられなかった。これじゃまるでこの交換日記をとても大事にしてたみたいだ。
「いつからそこにいたの?」
「昨日の夕方くらいかな?」
「え? じゃあ、夜もそこにいたの?」
「ああ。有希と彼氏が裸になって」
「あー、やめて! なによ! 変態?」
「有希、もう別れたら。あんな男とは」
「え?」
「だって楽しそうに見えないもん、二人とも」
 有希は清水に言われてハッとした。恵介と不倫を始めて三年がたった。最初は『新人の女』という商品価値で繋がっていたが、仕事での私の評価がそのまま二人の関係にも反映されるようになった。「妻とは離婚する。結婚しよう」その言葉も恵介は言わなくなった。
「ねえ、有希。その日記、読んでくれない?」
「え? 私が読むの?」
「だって僕は天井から降りられないんだ」
 有希は日記を読んだ。最初は他愛のない出来事のやりとりだった。けど、日にちがたつにつれ、まだ社会を知らない若い二人が、お互いの進路を語りあう文章に変わっていった。清水は医者に、有希は保母になりたかった。
「これ、本当に私が書いたんだっけ?」
 希望に溢れていた頃の自分を有希は愛おしく感じた。しかし、日記はある日を境に、交換頻度が減り始める。清水に心臓の疾患がみつかり、学校を休むようになったのだ。清水の日記は絶望的な文章で満たされ始めた。『国語の授業で交換日記終わるけど、このまま続けようね』有希は日記で清水を励ました。
「聞いていてつらくない?」
「ううん。その頃、有希が日記を家まで届けに来てくれた。僕はちっともつらくなかった。こんな形だけど、会えて本当によかった」
「清水君」
「感謝している。それを有希に伝えたかった」
 天井の清水の顔がだんだん薄くなってきた。
「待って! 消えないで!」
「もう行かなくちゃいけないみたいだ。有希、ありがとう。本当に感謝している」
「清水くん!」
 清水の顔は完全に消えてしまった。有希はすぐに恵介に電話して会社を休むと伝えた。そして、もう別れるとも。面倒だったらクビにしてもいい。有希は力強く恵介に伝えた。
 そのまま故郷に戻り、清水の実家に向かった。清水は昨日の夕方、息を引き取っていた。中学卒業後、家から一歩も出ることなく、自宅で療養していたと両親は言う。有希の頬に涙がつたった。交換日記を両親に渡した。一緒に弔ってほしかった。清水の実家の天井を見る。清水の笑顔が浮かんだように感じた。
(了)