第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「世界一つまらない本」朝田優子

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2021.06.09

第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「世界一つまらない本」朝田優子

  ある町に読書が趣味の男がいた。彼は子供の頃から小説、専門書、事典など、ジャンルを問わずあらゆる本を読んできた。四十歳を超えた今も変わらず読書を嗜んでいるが、最近とある噂を耳にした。
『この町に、世界一つまらない本があるらしい』
 今までつまらない本には何度も出会ってきたが、『世界一』とまで言われる本は初耳だ。興味を惹かれた男はその本を手に入れるため、本を読んだことがあるという人物を何人か探し出した。
「あのつまらなさといったらいっそ笑えるよ」
「読書が趣味の人間が一生本に手を出さなくなるくらいひどかった」
「思い出すのもはばかられるよ」
 本を知る者達の言葉を聞くたびに、男はますます世界一つまらない本を読みたくなった。
 そんなある日、見知らぬ老人が男の家にやってきた。
「あなたが世界一つまらない本を探しているという噂を聞いてやってきました。私が所有者です」
「なんとありがたい。さっそく譲ってくれないか」
「それは構いませんが、本当につまらない本ですよ」
 念を入れる老人に、男はいっそう本への期待を膨らませた。
「そこまで言われるとなおさら読みたくなる」
「では一万円でお譲りしましょう。返品は不可ですよ」
「そんなにするのか」
「この本は世界で一冊しかないんですよ」
 想像以上の高値に男は躊躇したが、意を決して代金を支払った。老人は本を手渡しさっさと帰っていった。男はすぐさま書斎にこもり感慨深げに本を眺めた。薄い文庫本で、黒一色の表紙にはタイトルも筆者の名前も記載がない。男はゆっくりとページを開いた。
 五分後。男が呆然と呟いた。
「これほどつまらないとは。想像以上だ」
 あまりのつまらなさに老人に突き返してやろうと考えたが、連絡先を聞くのを忘れていた。
「さてどうしたものか。もうこんなもの手元に置いておきたくないが、捨てるのももったいない」
 ふと、隣町に読書が趣味の女がいることを思い出した。特に親しくはないが、読書好きが集まる同好会で何度か話したことがある。男はこれ幸いと女の住所を調べ、家に向かった。
「世界一つまらない本をご存知かな?」
「噂は聞いているわ。とっても気になっているの」
「実はそれを入手しましてね。よければあなたに譲りましょう」
「そんな貴重な本を私に? 嬉しいわ」
「ただ世界に一冊しかないから少し値が張るんだ。五万円でどうかな」
「そんなにするの?」
女はしばし迷ったが、誘惑に負け男に代金を支払った。そそくさと帰っていく男を見送り、女は自室に戻り早速本のページを開いた。
五分後。女が呆然と呟いた。
「これほどつまらないなんて。想像以上だわ」
 女は男に突き返してやろうと考え、男の住所を調べ家に向かった。
「これは酷すぎるわ。返品させて」
「だから言っただろう、世界一つまらない本だと。嘘はついていないぞ。俺もこれを別の男から買ったのだ。君も誰かに高値で売ればいいだろう。最近こいつは噂になっているからきっと買い手は見つかるさ」
 女は言い返すことができず、しぶしぶ引き上げた。
 そして約一ヶ月後。世界一つまらない本に興味があるという若い男に女は出会うことができた。待ち合わせ場所の駅前に向かうと、若い男は既に来ていた。
「で、いくらするんです?」
「八万円でどう?」
「高すぎるよ」
「本当につまらないのよ。これほどの本は二度とお目にかかれないと思うわ」
 若い男はしぶしぶ了承すると、本を手に取りページを開こうとした。
「待って、こんなところで読むなんてもったいない。家に帰ってじっくり楽しむといいわ」
 女はそう言うと足早にその場を去った。
「何も悪いことはしてないわ。次はあいつが誰かに八万円以上で売ればいいのよ」
 世界一つまらない本を手放すことができた女は、ほっと胸を撫で下ろした。
「だいたい、あんなもの本とは呼べないわ。中身が白紙の、単なる紙の束なんだもの」
(了)