第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「滑り降りてくる小人たち」クルマオカオル

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2021.09.09

第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「滑り降りてくる小人たち」クルマオカオル

 哲学ショート(1)滑り降りてくる小人たち

「台所に猫がいるのよ」
 隣の棟に一人で住むミナエを日に何度かのぞくのは面倒なことではなかったが、このところ妙なことを口にするようになってきたのには少々戸惑っていた。
「どこです?」
 近所の飼猫がこのあたりをうろつくことはあっても、よその家に侵入するようなことは聞いたことがない。
「ガス台の上よ」
 ミナエは本当に猫がいるかのように、その方向を指さした。ガス台の上には、やかんが乗っているだけだ。
 それから四、五日した日曜日。お昼を一緒にしようとミナエの家の玄関を開けると、居間に通じる廊下がうす暗い。もう日が高いのにカーテンも開けてないのか。
 ミナエは居間の隅の一人掛けのソファにうずくまっていた。声をかけながら、勢いよくカーテンを開けると、眩しい光が部屋いっぱいに差し込んだ。
「いるでしょ、黒人の人」
「紫陽花のそばに、背が高い黒人の男の人が立ってるでしょ。だからカーテンを閉めてたのよ」
 狭い敷地だが、樹が多いせいで落ちついた雰囲気の庭だ。紫陽花には咲き終わった花房が枯れてドライフラワーのようにまだ残っていた。その左側にはかさついた樹皮の柿の木、右側には、今ちょうど花が盛りの山法師が見える。
「人なんていませんよ、どこにも」
 明るい庭をおそるおそる見回すと、ミナエはぽかんとした表情で、
「でも朝にはいたのよ」
 と、小声で呟いた。
 用意してきた野菜のサンドイッチをほお張るミナエを見ながら、いったいミナエに何が起きているのだろうと、皮膚の上を得体の知れないものが這うような感覚にとらわれた。
 翌朝。なんだか気になって、午前中の仕事を始める前に隣へ行ってみた。
 カーテンの閉まった居間を抜けて台所をのぞいてもミナエは見当たらない。寝室の前まで来て、声をかけながら戸を引いた。
「お義母さん、まだ休んでます?」
 ミナエはパジャマ姿でぼんやりと壁に凭れ、眼を閉じている。
「お義母さん、どうしたんです?…そんなところで。ちゃんとベッドで寝ました?」
 ミナエはゆっくり眼を開けると、
「このごろね、ベッドに入ると、天井からキラキラした幕が下りてくるのよ」
 訴えるようでもなく、独り言のように言う。
「ほら、何て言ったかしら? お父さんがカナダで見たっていう、空の幕、赤や緑の…」
「オーロラ、ですか?」
 実物のオーロラは息をのむほどだったという義父の話は、わたしも何度か聞いたことがある。
「キラキラしてて、そこを小人が滑り降りてくるのよ、大勢」
「みんな毛布の上に落ちてきたり、ベッドに入ってきたりするから…」
 怖がっている風もなくそう語るミナエをよそに、わたしは寝室の天井を見上げずにはいられなかった。
 幕を伝って小人たちが滑り降りてくる話を繰り返すミナエに相槌も打てず、彼女の乾いた唇が動くのを眺めながら思案した。果たして何科を受診させればよいのか。
 結局ミナエは、幻視や錯視を特徴とするレビー小体型という認知症であることが判明。睡眠中も動き回って怪我をするケースもあるので注意するよう医師から告げられた。
 その晩からは彼女のベッドの傍らにマットを敷き、見守ることにした。とはいえ夢遊病者のように振舞っても、こちらが目を覚まさなければどうするのか。あれこれ想像すると気が気でなく、肩が張ってきた。
 それでも九時を回るとミナエは寝室に向かい、ベッドサイドのスタンドを小さい灯りだけ残して静かに横になった。暫くは眼を開けて天井を見つめていたが、やがて寝息が聞こえてきた。するとわたしの背筋のこわばりも心なしかほぐれ始め、ミナエの寝顔を眺めながら、いつの間にかまどろみの中に落ちていったようだ。
 だが確かに小人たちはいた。ベンチに腰掛ける白雪姫の周りで思い思いに遊んでいる。白雪姫の膝の上ではしゃぎ、そこからスカートの裾まで一気に滑り降りて歓声を上げている。何度数えても小人は七人ではなく、もっと多い。うようよいる。よく見ると、その中の一人、白雪姫の脛あたりで青い布にしがみついているのはわたしではないか。しがみつく指に思わず力が入った。
(了)