第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「新たなる人生」Y助

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2021.09.09

第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「新たなる人生」Y助

 朝、目が覚めた瞬間、あっ……と思った。そうだ、思い出した。私は歌姫だったんだ。それも超売れっ子のトップアーティスト。新曲を発表すれば、たちまちヒットチャートの最上位。ネットの動画再生回数は、常に世間の注目の的。まさに、怖いものなしだ。
 さらに記憶は蘇る。そうだ思い出した。今日は日本列島を縦断する、全国ツアーの初日だった。特設野外ステージで、六万人ものファンを集めて、オープニングライブだ。
 飛び起きて、カーテンを開ける。……何、これ。窓ガラスには、髭面、メタボ親父の姿がぼんやりと映っている。誰? 振り返って見たが誰もいない。少し疲れているのかも。でも、休養の時間などない、頑張れ、私。
 寝室を飛び出し、階下のバスルームで汗を流す。髪を乾かし歯も磨いた。化粧はライブ会場に着いてからにしよう。もうじき迎えの車が玄関前に到着する。それまでに身支度ぐらい整えておこう。迎えの車など待たせておいてもいいのだが、私はそんな生意気なまねはしない。あくまでも、謙虚な普通の女の子を演じるのだ。有名人になった今でも実家暮らしを続けているのは、庶民的なイメージで、ファンの好感度を上げるためなのだ。
 支度を整えリビングに向かう。途中、廊下で母と顔を合わせた。母は悲しげな眼差しで私を見つめた。きっと、かわいい娘が自分とは異次元の住人になってしまったことが、悲しいのだろう。ごめんね、お母さん。
 リビングに入ると、父と目が合った。曽於瞬間、あっ……と思った。その視線の暗さと、背後にまとう弱いオーラ。間違いない。この人は何か、とても深く大きな闇を抱えている。それくらいのこと、私ほどの優秀な占い師いなれば、見ただけでもピンとくるのだ。
 繁華街のファッションビルの地下二階。その片隅にある占いの小部屋。質素ながらも、愛する私のお城だ。そこには毎日何人もの迷える子羊が、私を求めてやって来る。大きな悩みを持て余す者、何かに怯えながら私の能力にすがる者。優しさだけではだめ。時には厳しく突き放したりしながらも、進むべき道を共に考え諭す。それが私の使命なのだ。
 日々打診される占い本の出版や、メディアへの露出は、極力断るようにしている。私は金持ちになりたいのではない。私を頼りにやって来る人を助けたい。ただ、それだけなのだ。しかし、そんな純粋な思いが人々の共感を呼び、私の名声をさらに高める。
 さあ、出かける時間だよと、父が立ち上がり私を促す。何か予定があっただろうか。思いつかなかったが、私は素直に従うことにした。そのほうが、父のためになる。そう判断したからだ。悩める父を問いただし、追い詰めることは、今は避けたほうがいい。
 靴を履き、玄関を出ると、ごく普通の、国産車が止まっていた。その瞬間、あっ……と思った。怪しいと思った。運転席には、どこか白々しい母の姿。背後に回った父は、力いっぱい背中を押し、私を後部座席に押し込もうとする。思ったとおりだ。二人とも偽物だ。敵国の殺し屋に違いない。ありふれた車を使うのは、目立たないように私を連れ去るため。
 それにしても、私ほどの一流の秘密諜報部員をまんまと欺くとは。敵ながらあっぱれ。私は意を決して、車に乗り込むしかなかった。下手な抵抗は、死を意味する。
 連れて行かれたのは、大きな白いビルの一室。中には白髪の男が一人。壁際に置かれた小さなベッドを指さすと、横になるようにと、私に命令した。次に男は注射器を取り出し、微笑みながら私の腕に透明な液体を打ち込んだ。おそらく睡眠薬だろう。酩酊状態の私から、大切な国家機密を聞きだそうという魂胆に違いない。そして、その先に待っているのは……死。早く逃げ出さないと、しかし、意識は朦朧としていく……。

「だいぶ良くなってきましたね。催眠薬の効き目もそろそろ切れるころですから、間もなく目を覚ますでしょう」
 白髪の老医師が、心配そうに診察を見守っていた夫婦に微笑みかけた。
「悪と戦う美少女戦士、何千年も生き続けている呪われたお姫様。この二つの妄想は、消え去ったようですね。今日の診察でも、姿を見せませんでしたから。次回の催眠療法で、人気アーティストだという妄想と、占い師と秘密諜報部員……。これをすべて消し去れば、無事、社会復帰できそうですね」
 頷きながら、診察経過をカルテに書き込む医師。しかし、ふいに眉をひそめて、
「そうそう、あともう一つ、消しておかないといけない妄想が……。自分を若く美しい女性だと思い込んだままでは、新たなる人生の幕開けに、支障がありそうですからね」
 そう言いながら、傍らのベッドでまどろむ、四十二歳、髭面、メタボ親父に視線を落とした。
(了)