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Chapter3 キャラクター造形

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キャラクター造形

なぜキャラなのか?

小説には人物が出てくるが、書き手が漠然としたイメージしか持っていないと、読んでいて誰だか分からなくなる。こうした人物は単なる登場人物であって人間ではない。


人間であればプロフィールを持っているだろうし、嗜好も性格も癖もあるだろう。それを表現しないと、血の通った人間には思えない。自分と同じ人間なのだという思いがなければ、そこに自分を重ねることはできないし、感情移入もできない。


つまり、キャラクター造形とは、紙の上に人間を存在させるためにやる作業と言える。

人物のプロフィール

アマチュアの方の作品でよくあるのは、分かっているのは性別ぐらいで、年齢も外見もはっきりしないということ。はっきりさせなくてもいい場合もあるが、終盤になって「え? そんな年だった?」と思われては困る。


名前、年齢、性別、大まかな外見などは基本情報だから、早めに、自然に、読者に情報提供したい。


ただ、実際のプロフィールや履歴書であれば、学歴、職歴、生年月日、家族構成などいろいろ細かい項目があるが、書く前に必要のないことまで考えなくていい。


特に、外見の細部、瞳が青いだとか、耳が猫耳だとかは設定やストーリーを決める以前に考えても意味がないし、きっちり決めればそれが枷になって話が広がらない。物語が動かない人は、細部まで決めすぎるのが一因。このあたりは映像と小説では違う。

キャラとは性格

映画やテレビ、漫画の場合は外見が重要になる。人物が出てくるときは、常に外見も映るから。


しかし、小説の場合は、人物が登場するたびに髪型がどうで、シャツの色はどんなでと、その必要がないのにいちいち書くわけではないし、書いてもよほど特徴的な一点を、強調して繰り返し書かなければ伝わらないので、普通はやらない。


では、どうすればキャラが立つかと言うと、性格を書く。この性格はかなり極端なほうがいい。これは小説が活字であることにその理由がある。


沼正三に『家畜人ヤプー』という異色の小説がある。主人公は洋式便器である。そこでは西洋の女性が用をたすのだが、これほど気色悪い設定であっても、活字なら読める。では、これを映像化したどうか。女性はドン引きでまず見ないだろう。


活字の場合、最初に言葉という記号を読み、そのあとで意味を理解したり、絵を浮かべたりする。映像のようにダイレクトに入ってくるわけではなく、与えられる情報量も極めて少ない。だから、少し大げさにやっておかないと伝わらないわけだ。

性格は極端なほうがいい

だから、「主人公は優しい青年」ではなく、もっと極端にやる。たとえば、「自分を襲ってきた変質者にすら同情して泣いてしまう」といったぐらいに大げさに設定する。


もちろん、話の内容にもよるが、怒れば暴走するし、自己中心的だし、やることは衝動的、考えることは妄想だらけといったように、何かにつけ極端にする。影が薄い主人公にするくらいなら、「そんなやつがいたら迷惑だな。絶対友だちになりたくない」と思うくらいのほうがいい。


世の中には応募作を含め、無数の小説があるわけだから、何も思い出せないというのでは致命的だ。


ただ、身なりは汚いし、嫌な性格であったとしても、どこか憎めない愛すべき存在でないと、共感したり同化したりはしにくい。

性格は言動に現れる

性格は小説の中のどんなところに現れるかと言うと、それは言動ということになる。特にセリフである。

 

そう言うと、語尾を「そうだっちゃ」にすればいいように思う人もいるが、それは本質ではない。


「失礼ながらお嬢様――この程度の真相がお判りにならないとは、お嬢様はアホでいらっしゃいますか」
(東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』)


影山は頭脳明晰な執事で、麗子から話を聞いただけでズバリ犯人を言い当てるが、その態度は婉曲に尊大、慇懃にして無礼で、そこが笑える。


こうしたことを、「執事影山は尊大なもの言いをする」で性格が表現できたつもりの人がいるが、それは説明だから実感として伝わってこない。言動を通して表現するのがセオリー。

 

さて、以下は事件が解決したあと、澤田絵里と黛香苗のどちらかが犯人かと影山に聞かれたときの麗子の態度。


「ふん、簡単じゃない。(中略)答えは二つにひとつじゃないの――」
そして麗子はさっそく目を瞑って、ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な……
「ヤマカン頼みはおやめください、お嬢様」
(東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』)


この作品は本格推理としても実によくできていて、コミカルさはその土台の上に咲いた花だが、ここでは笑いの要素は問題にしない。


探偵になりたかったという男が、少しまがぬけた正真正銘のお嬢様の執事になったら、どんな態度をとるか、どんなしゃべり方をするかということを、紙の上で再現しているところに注目したい。


つまり、性格を説明するのではなく、性格を再現しているわけだが、それができると、結果として「と言った」と書かなくても、これは影山のセリフ、これは麗子のセリフと分かる。


繰り返すが、それは言い方、口調のせいではなく、性格がセリフや行動に表出したものということになる。

主人公には特殊能力がある

コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズでは、物語の語り手はワトスンになっている。つまり、ワトスンが主人公ということになるが、これは形式的な主人公で、実質的な主人公はホームズである。


なぜ、ホームズを語り手にしないかというと、キャラが立った人物が自分で自分を語るというのはやりにくいからだ。


ちなみに、主人公のキャラが立っていればいるほど、脇にいる人物は並のキャラでいい。引き立て役だから。


さて、この実質的な主人公は、エンターテインメント小説では、天才、特殊能力者、あるいは、あることにおいては偏執的な執着と才能を見せたり、情熱や愛情を持っていたりする。


『謎解きはディナーのあとで』で言うと執事の影山、『チーム・バチスタの栄光』で言えば厚生労働省の変人役人・白鳥、その他、有名な推理小説、時代小説、娯楽小説を思い浮かべてみると、だいたいが「天才、特殊能力、偏執的執着・情熱・愛情」にあてはまる。それらは普通の人にはできない能力で、それを代わりにやってくれるから痛快なのだ。

欠点を合わせ持つこと

藤沢周平に「ど忘れ万六」という短編がある。万六は隠居の身で、若い頃は居合の名手だったが、今は「このナニも」と言うくらい物忘れがひどい。息子に家督を譲った今は厄介者で、嫁の亀代も万六を粗末に扱う。

 

そんな折、嫁の亀代が浮かない顔をしている。聞けば、昔なじみの片岡と茶屋(今で言うラブホテルを兼ねている)から出てきたところを大場という男に見られ、脅されていると言う。


そこで万六は大場の元に行き、嫁を脅したことをお上に届け出ると告げる。粗暴な大場は刀を抜く。刀が万六の頭上を襲ってくる。絶体絶命だ。


しかし、次の瞬間、大場の刀は宙を飛び、大場自身もうずくまる。万六の居合の一撃が大場の刀をはね飛ばし、返す峰打ちで脛を払ったのだった。

 

万六は、かつては居合の名手だったから、男を一撃で打ちのめしてもおかしくはない。しかし、それをストレートにやってはおもしろくならない。老いが迫っているという弱さを存分に見せておいて、最後に切り返すからこそ胸がすくわけだ。


物語もキャラクターの設定も、「意外」「対比」という相乗効果が必要という好例だろう。

キャラ作りが苦手な人は?

プロの作家もよくやっているのが、タレント、スポーツ選手、歴史上の人物などをモデルにするということ。その人そのものが個性的なら、それだけでかなりキャラが立つ。


頭の中でその人をイメージして、セリフを言わせたり行動させたりすれば、それだけでも効果があるが、できればよく観察して(想像して)、細かいしぐさから癖、しゃべり方、ものの言いようまでそっくりコピーするといい。


この場合、○○をモデルにしているとは分からないようにする。


有名なキャラを下敷きにするという手もある。その場合、今ウケているキャラではネタバレになるから、何十年も前のキャラとか、海外の隠れた名作の主人公とか、とにかくネタがバレないようにすること。

さらに、何人かのキャラクターを組み合わせたり、そこに新たな要素を加えたりする。そこまでやれば、もう新しいキャラクターになっている。

斬新とまではならないなら?

自分の筆力以上のキャラを設定した場合、それを描ききることができず、書き手がキャラにつぶされるということも起きる。


それでもなんとか習作を続けられればいいが、無理なら、そこそこ個性的なキャラで妥協するしかない。

 

そのときはキャラ以外のウリが必要になってくるが、キャラが並でも、要は深く印象に残る何かがあればよい。

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